私は、インターネットで、「袴田さんの死刑判決を書いた裁判官のひとりが後悔したそうだ。立派だ」という趣旨の意見(書き込み)を複数個見た。そしてすっかり仰天してしまった。
「袴田さんが犯人に仕立てられた事件」は、教科書に掲載してもいいくらいの典型的な冤罪事件である。私は学生時代にこの事件の存在を知ったが、あーぱー女子大生だった私ですら経緯と証拠を見ただけで「袴田さんは犯人ではない。こりゃあ冤罪事件だよ。日本の裁判制度は三審制だというが、どうやら多重チェックが機能していないようだな」と気づくことができたほどの「あからさまな」ケースなのだ。つまり、「猿にも分かる冤罪事件」と言っていい。
私の考えでは、本当に裁判官が「立派な人物」であるならば、法曹界と決別してジャーナリストになって真犯人を見つけようとしたはずである。
現実には、その裁判官は「判決を書いた」わけだ。つまり、「自分が袴田さんの人権を侵害し、袴田さんの人生を痛めつけてしまう」と予見した時点で法曹界と決別することはおろか、裁判官をやめることすらしなかったわけだから、「立派な人物」ではなく、「お仲間とともに袴田さんを欺き監禁して脅迫して暴行して強要した犯罪」の「共謀共同正犯」というのが正しいと思うが、いかがだろうか。
その犯罪者が自分の「体制によって違法とされることはない犯罪」を「後悔した」というエピソードは噴飯物だが、そこにはさらに注目すべき情報があった。そやつが死刑判決を書く気になった理由というのが、「まさか自分の同僚である裁判官たちが間違うわけがないと思ったから」というのである。
その「理由」は、論理的ではない。論理的ではないだけでなく、実に滑稽である。どのくらい滑稽かというと、「あのBBAの家に行って通帳をもらってこい」という指令を出して逮捕されたサラリーマンの「オレオレ詐欺の出し子への伝令係」が、「俺の勤務先は、上場企業の経営層のコンサルやってるコンサルファームなんすよ。本店オフィスは、皇居の近くにあります。俺の上司らは全員東大とか慶応とか早稲田とかを出てるエリートですから、オレオレ詐欺なんてしてるわけがないと思ってました。なんせ会社は上司たちの活躍のおかげでふつうに儲かってるんで。俺の尊敬している上司たちがオレオレ詐欺してまで金を必要としているなんて誰が想像できますか? 」と言い訳するのと同じくらい滑稽である。
「自分が見た証拠」と「自分の周囲の裁判官の意見」とを天秤にかけたとき、「まさか自分の同僚である裁判官たちが間違うわけがない」というのが死刑判決を書く理由になると本気で考えているのであれば、ある種の心の病気である。「権威主義に毒されておられる」のである。
権威主義者は、事実に即した判断ができない。なぜなら、自分の地位と、それを保証してくれる体制と権威とを失うのが怖いからである。権威主義者は、地位あるいは金(生活)のために自ら進んで(勉強している途中で「おかしいぞ」と気づくことがあってもスルーして)「権威」に洗脳され(「通説」を「正解」として記憶して)、試験を通って自分をその「権威」の傘の中の「体制内エリート」であると位置づけている。よって、権威主義者は、自分と体制と権威の三点セットあるいはそのどれか一つが社会的または人的関係において不利になる状況を目前にすると、反射的に、それらを「守ってしまう」のである。それは肉体の反応であって、「善悪の判断」とか「真実を突き止める」とかいった「頭脳の営み」とは無縁である。私が権威の傘の下にいたら、私も間違いなくそういう反応をしてしまうだろう。条件反射だからである。権威主義者にとっては、「自分と体制と権威の三点セットあるいはそのどれか一つが不利になる状況」は、「そこからいますぐ脱出せねばならない緊急の事態」なのである。彼らがこのとき脱出するために何をやらかそうと、彼らにとっては、すべて、「緊急避難のうち」で「ゆるされること」なのだ。権威主義者は、権威の「自動お守り人形」というか、「おもちゃの兵隊」状態なのである。
以上のことから、「裁判官も人間だから間違うこともある」というのは壮大な勘違いであると私は言いたい。
私の考えでは、「裁判官は権威主義者だから、事実に即した判断ができないだけ」なのである。「人格」やら「頭のよしあし」やらはまったく関係がない。
頭がよくても、人格が立派でも、一旦権威主義者になってしまうと、人は、権威主義の「おもちゃの兵隊状態」から逃れることはできない。
「権威」からは、入り口の段階で逃げなくてはいけない。逃げるタイミングを逃した場合、誰でも権威主義者になってしまう。「逃げ遅れて、権威主義者になってしまった。しかも体制内で出世までしてしまったが、やはり思い悩んだので、途中で降りることにした」などということを実行できるのは、「天才」だけである。「天才」はただでさえ権威主義系の職業エリアでは希少種なのに、権威体制の入り口の段階で親や学校などの圧力に負けて嘘に目を瞑ることができてしまった「不幸な天才」など、50年にひとりいるかいないかといったところである。
先ほど「おもちゃの兵隊」と言ったが、我々日本人には、よりふさわしい表現がある。「お国のために大陸に『進出』した大日本帝国陸軍の一兵卒」である。なぜなら、袴田さんを逮捕監禁強要暴行した犯罪者たちは、全員出世したり、叙勲されたりしているからである。勲章をもらった最高裁の裁判官は、天皇から直接勲章を手渡されている。
▼source
『
全員実名で告発! 袴田巌さんの罪をデッチあげた刑事・検事・裁判官(週刊現代) | 現代ビジネス | 講談社』
(画像出典: 『全員実名で告発! 袴田巌さんの罪をデッチあげた刑事・検事・裁判官(週刊現代) | 現代ビジネス | 講談社』)
つまり、天皇政府は、「猿にも分かる冤罪事件」における「加害者たち」を「高評価している」のである。
私は、数年前にいま紹介した記事を読むまで、この事実を知らなかった。
私は、学生時代からこの記事を読むまで、「猿にも分かる冤罪事件」のことを、「権威主義者が寄り集まったせいで起きるべくして起きた不幸な冤罪事件」だと思っていた。「戦うべき相手は『権威主義』である」、と、壮大なる勘違いをしていたのである。
私は、この記事を読むことによって、ようやく数十年のおばか状態から覚醒したのである。この冤罪事件は、「陰謀」である。「体制を守るために嘘をつく人物は立派である」「体制を守るために嘘をつくと出世する」という道徳感を醸造するための陰謀なのである。
よって、私は、真犯人は、「体制ピラミッドの上位層」に属しているか、そこと連携できる人物であると確信している。
『X』において、私は「司法は信頼を取り戻さなくてはならない」とかそれに類する組織の現状維持型存続を前提とする意見を見た。司法にそもそも「取り戻す」ような信頼があったのかどうかということが重要だがここではまあそれは棚にあげて手っ取り早く結論を話すが、私は、司法がやるべきは、「真犯人探し」と、「袴田さんをハメた関係者を罪に問う」ことだと思うのだ。この二つができた暁には、「結果として」、司法は史上初めて日本人に信頼される制度になるであろう。