日本の「知識人」とされている人が、日本の「大衆」のことを「反知性主義」だと言っているという文章を見た。
私の考えでは、日本の大衆が「反知性主義」だという見方は間違っている。
私が見るところ、日本の大衆は、日本の知識人層を「憎悪している」ということはない。むしろ、彼らのどうでもよい発言をせっせとretwする一団もあり、見方によっては「日本の大衆は日本の知識人層に強い興味を持っている」「日本の大衆は日本の知識人層が好きである」という見方をすることすらできると思う。
いっぽう、日本の知識人層の発言にまったく興味を示さないか、せせら笑っている日本の大衆の一団もある。日本の知識人層はこの人々に焦点を当てて「日本の大衆は反知性主義だ」と言っているようなのだが、私が見るところ、日本の知識人層の発言にまったく興味を示さないか、せせら笑っている日本の大衆の一団は、知識人層を自分たちとは違う「クラス」ないし「団体」であると認識して「嫌っている」のではない。私が見るところ、彼らは、日本人知識人層のいうところの「言論の力」なるものには「解決する力がない」と認識したということを表明しているにすぎないのだ。
私は、日本の大衆は、日本人知識人層が次のものを詰めることができていれば、知識人層のいうところの「言論の力」なるものを信じることができたはずだと思う:
-統一教会=自民党、それに類する自民党の権力構造の問題、税金、天下りの問題、権力構造に入り込んでいる日帝協力外国人の問題
-戦争責任
-覚醒剤の問題
-冤罪事件
-米軍基地問題
日本の知識人層の発言にまったく興味を示さないか、せせら笑っている日本の大衆の一団は、せっせと『X』に自分が重要だと思う情報を書き込んだりretwしたりしているが、主に上記のことを書いているのだ。その姿(頻度)や書き込んでいる内容を見ると、私は、彼らが「言論そのもの」や「言論の別のありかた」を否定しているわけではないと感じる。
日本の大衆の表出のしかたなり表出したものが「言論として拙い」ので、日本人知識人層にはその物言いが「バカ」ないしは「アカデミックな訓練がなされていない」ようにしか見えない。そこで、知識人は「反知性主義」と呼んでいるのであろうが、日本人知識人層が「反知性主義」というとき、その「反知性主義」なる言葉は、「バカな庶民ども」の言い換えでしかないように私には見える。
庶民は、本当にバカなのだろうか?
私は思うのだ、「統一教会=自民党」の問題を顕在化させたのは、山上さんの捨て身の抗議だったという人々の見方は正しい、と。
政治システム研究をライフワークにしている私(←それは「日本では非常に珍しい趣味の持ち主」であると言える)が見ても、山上さんがいなければ、日本の統治システムが不平等を拡大することによって維持される形態の政治システムであるということに多くの人々が気づけなかったことは「間違いない」のだ。それは、「否定しようのない事実」だと私は思う。それは、「たったひとりの勇気ある人物の行動が、システムの不正を大衆に認識させることができた」ことを意味する。それは、「大衆が民主主義の重要な問題に気づくのに『知識人による教え』は必ずしも必要ではない」ということを示唆している。
そして、私も含めた「バカな庶民ども」は、さらに、深いところに気づいてしまったのであった、「統一教会=自民党」の問題が顕在化しても、「統一教会=自民党」の問題を詰めたり、山上さんを守るために立ち上がる「知識人」がひとりも現れない、ということに、である。「詰める」というのは、いまアメリカで民主党の不正蓄財をトランプ=マスク組が洗い出しているような作業のことである。日本には、「統一教会=自民党」の問題が顕在化したのち、トランプ=マスク組が実行しているような「意味のある政治活動」をする人物が現れない。一体、日本では、「システムの不正を暴き、責任をとらせよう」とする人物は、「誰」なのだろうか? そういう人は、一体「どこ」にいるのだろうか?
「統一教会=自民党」の問題が顕在化したのち、芋づる式に露になったことがある。それは、いままで「統一教会=自民党の問題を追っていたとされる人々」が、「ミャンマー問題を知らない」だの「日本財団を知らない」だの「日本のメディアがCIAの傘下にあることを知らない」だの、ありえない認識を示しているということである。つまり、いままで「統一教会=自民党の問題を追っていたとされる人々」は、「追っている格好をしていた」か、「突っつく範囲を限定して突っついてきたにすぎなかった」のである。
ひょっとすると、日本において、「システムの不正を暴き、責任をとらせよう」とする人物は、我々日本人が政治の枠組みないし言論の枠組みとして与えられたところにはいない...の、かも、しれない。