「日本政府が(西欧の政府と比較した場合、相対的に)大学に補助金を出さなかったので、その結果として、日本の産業界が育たなかった」という意見を見たが、私は、その意見は根本的に間違っていると思う。
日本の産業界が育たなかった根本原因はそもそも「大学」にはないし(私の考えでは「人件費が安すぎるところ」にあるし)、日本の大学の問題は、政府が日本庶民の税金を補助金として大学に投入しなかったことではなく、日本の大学が(西欧の大学と比較した場合、相対的に)学費が高いところにあると思う。「大学教育」というのは、サービスとして「結果を約束するものではない」から、(つまり、基本的に大学教育への投資は「投機」でしかないので)、国公立の大学の学費は安くなくてはサービスとして成立しないのである。私学の場合は辛うじて親(や本人)が「好きで金を出した」という抗弁が成り立つが、国公立の場合は「そもそも私学を選択肢に入れられない家庭(や個人)」の存在が前提なので、そういう抗弁は通用しない。
アメリカの私学は、「高い学費を出した価値がある」という「サービスの結果」を「保証」しようとするが、私は、これは両刃の剣だと思う。大学が教育の対価として高い学費を要求し、かつ、「サービスの結果」を「保証」しようとすれば、「産業界における卒業生のコネクション」を高評価しなくてはならなくなり、結果的に「エリートクラブ化」してしまうだろうと思うからだ。「エリートクラブ化」してしまうと、大学の存在そのものが社会への毒になりかねない。
日本の大学は、アメリカの私学のように「サービスの結果を保証しよう」としたことはない。「サービスの結果」であると考えるべき範囲までもが、日本においては、学生の「自己責任」の話なのである。日本の大学は「サービスの結果」については知らんぷりを決め込んできたわけだが、大学が国(政府)からの補助金を得ようとすれば、「大学教育が産業界になんらかの好影響を与えている」ということを文書でアピールしなくてはならない。大学が自身の「サービスの結果(卒業生の産業界における活躍)」をあらかじめ「成果」の範囲から除外するのであれば、大学は、おのずから、「サービスの中身」(「現在進行形でやっている研究」を含む)が「産業界に好影響を与える」ことをアピールするという「一点突破」を目指さざるを得なくなる。つまり、「日本企業が特許制度を利用して新規産業分野に独占的に進出すること」を可能ならしめる「学術上の新発見」をするよりほかなくなるというわけだ。
しかし、大学が産業を見越して行動しようにも、そもそも日本の大学と産業界との直接的な接点は存在しない。日本の大学は確かに卒業生を日本社会に送り出してはいるが、先にも言ったように、「高い学費を出した価値がある」という「サービスの結果」を「保証」しようとしないので、大学から見た場合、産業界は常に、いつまでも、「霧の中」の「別世界」なのだ。大学と産業界とを結びつけるものは、日本政府の「方針」である。この「政府方針」を見て、大学と産業界は「こっちの方向に行くと補助金や助成金がもらえるらしい」と「悟り」、同じ方向に向かって進み始めるのである。日本政府が指揮者で、大学と産業界は演奏者のようなものである。別の言い方をすれば、(金の回らない経済社会で事業を継続しなくてはならない状態にある)日本の大学と日本の産業界は、補助金や助成金を得るために、日本政府の言いなりになるよりほかない存在というわけである。
こうして成立しているのが「産学連携」であるので、これは「政府の」事業であって、「大学の」事業ではない。それどころか、「産学連携」では金を引っ張れないし成果を文書化しなくてはならないので(つまり成果が上がっていないと「大学が詐欺した」「企業が詐欺した」という話になってしまうので)、国の金を引っ張っても直接的な結果を開示しなくてもよいように官を受け皿機関として間に挟む形式(「産学官連携事業」)に「後退」している始末である。つまり、日本は、経済社会が貧しいあまり、国として、「開発独裁国家化」しているのである。
よって、私は、「政府が大学に庶民から集めた税金をどれだけ投入したか」という評価軸は、意味がないどころか害悪である可能性を孕んでいると思う。「教育」を考えるとき、人間社会にとって意味のある評価軸は、「誰もがカンタンにアクセスできるものか否か」だと思う。この評価軸の場合、「大学を教育の根本に据える」という発想にはならない。もちろん「大学」は存在してもよいが、大学は「たくさんある教育サービスの一つ」にすぎなくなるのである。大学が素晴らしい先生をたくさん集めて競合を寄せ付けないぶっちぎり独走の「教育サービス」を提供するのもいいし(私はそれは実に素晴らしいことだと思う)、大学が「エリートクラブ」という「ブランド化」を図ってもよいと思うが(それは経営上の自由だと思うし、社会に自分の知識を還元できる卒業生を多数作り出せて、なおかつトラウマを抱える人間をひとりも作り出さないのであれば、文字通りブランドとして通用するだろうと思うけれども)、「大学」は、「最高峰」だとか「中心」だとかにあってはならないと思う。つまり、大学という組織が「税金を投入する正しい場所」という地位を狙ってはいけないし、周囲が、大学をそういう地位を狙うべきものとして扱ってはいけないと思う。
教育サービスにとって重要なことは、「誰もがカンタンにアクセスできる」ということである。「誰もがカンタンにアクセスできる教育サービス」が、社会において最も評価されなくてはならないと思う。政府ある社会であるなら、そこにこそ、庶民から集めた税金を投入しなくてはならないだろう。
ワールドワイドに教育に求められていることは、「誰もがカンタンにアクセスでき」、「ユーザーが、自分の知識が深まったり、自分の技術が高まったりする体験を恥やスティグマの恐怖を感じることなくできる」ことだと思う。しかも、「産業界」は、もはや一国の経済圏を越えて成立している。そもそも、人間は、国籍や言語が同じだからといって同一の価値観を持っているわけではない。私の個人的な経験では、国籍や言語や宗教は違っても、共感したり理解することのできたりする価値観を持つ人間は、世界のあちこちに「飛び地」のように存在している。こういう「実際の社会のありよう」「実際の人間のありよう」を考えると、「自分に似た人々」が自由に新しいコミュニティを作れて初めて、そこに「新しい産業」が花開くのではないかと私は思うのである。