日本の最高裁判所の裁判官がアメリカ政府の指図の下で判決を書いていたという事実が判明したのは、私が起業準備中のことであった。いまから15年くらい前である。
「日本の最高裁判所の裁判官がアメリカ政府の指図の下で判決を書いただろう」ということは、私が学生のころから「当然のように論理的に推測できる話」であった。推測できないのは「バカ」か、「法律/政府関係で食べていくんだという決意を固めたので、その決意を揺るがすような事実は見ないことに決めた」というタイプの人物のいずれかであった。後者のタイプは、日本では「優等生」という用語で知られている。よって、私の母校のOBは、圧倒的に後者であると私は確信している。私は東京大学法学部の卒業生である。
私は学生時代、「バカ」ではなかったが、「優等生」でもなかったから、日本政府のありかたや体制を肯定したり追認したりするための強弁は頭に思い浮かばなかった。「強弁」の代表は、「日本の最高裁判所の裁判官がアメリカ政府の指図の下で判決を書いたというのは『文書で確認された事実』ではないので、推測でガッカリするのは早計である」というものだ。「疑わしきは罰せず」を拡大解釈したようなもので滑稽だが、「優等生」のあいだでは流通していた。今時の学生さんなら、「事実が判明するまでは、すべての推測は陰謀論にすぎない」とかといった言い方をするのだろうか。私は「優等生」ではなかったので、こうした主張は頭に思い浮かばなかった。それのみならず、他人が口にしているのを聞けば、私にはまったくの「いんちきの肯定」に聞こえたのだった。つまり、私は「ふつうの学生」だったので、「ふつう」に、「『たなぼた民主主義(筆者註:日本庶民が革命などで自力で皇室からもぎとった民主主義ではなく、皇室がアメリカに戦争で負けたのでアメリカによって占領政策の一環として庶民が人権を持つ存在に「格上げしてもらえた」ことを指す用語)』じゃなくて、『建前民主主義』じゃん。庶民に革命を起こさせないために、俺様んとこは民主主義になったんだぞって吹聴することにしただけじゃん」と、「ありのまま」にしか認識することができなかったのである。
さらに、私は、憲法の天皇の項を読んだときと、『憲法1』で、憲法改正の手続きを知ったときに、「
日本においては、法律は、ルールとしては存在しえない」と思うようになった。
社会の構成メンバーの全員に、「同じことをしたとき、誰もが同じように扱われる」という確信がなくては、すべての取り決めはルールたりえないからだ。これはまったく「特別な思想」ではない。小学生のときに「基地ごっこ」「鬼ごっこ」をしていて染み込んだ「一般的な庶民感覚」である。
学生時代、私は思ったのだった、「契約を結ぶ2者間のルール」(約束)というものは存在しえると思うが、
超法規的存在がいる以上、「社会全体のルール」などというものはそもそも存在しない、と。仮に、そこを強引に「存在する」と主張し、その主張を多数派工作で(数の力で)押し通した場合、社会には「凄まじい不公平」と「格差の固定」と「政府による弾圧」が吹き荒れることになるだろう、と、私は強い懸念を抱いた。
学生だったころ、私は「ふつうの学生」だったが、正確には、「世間知らず系のふつうの学生」だったので、日本社会に「凄まじい不公平」と「格差の固定」と「政府による弾圧」が「すでに吹き荒れている」という実感がなかった。「すでに吹き荒れていたのだ」と私が遅まきながら認識できたのは、安倍政権を見てからであった。
私は生まれつき、不条理を嫌うタイプの人間だと思う。私は不条理を避ける(メンバーが不条理に苦しまなくて済む)システムを構想したり構築したりしたいといつも思ってきたが、プログラミングができるようになっても、具体的に構想も構築もできなかったのであった(私が構築できたのは、主に自分と自分のようなタイプの人間のための「自分の商売を管理するためのツール」である)。『
streams』に出会ってから、私が求めていたもの(もっと言えば、人間が社会システムとして受け入れることができるようなもの)は、これだったのではないかと思うようになった。
Mikeさんは、私からみれば「天才」である。その
Mikeさんも試行錯誤のうえ、現在の『
streams』に落ち着いておられるのだから、私が具体的に構想も構築もできなかったのは仕方がないことなのかもしれない。私は、我知らず、非常に高度なこと(天才の仕事)をやりたがっていたのかもしれない。
私は、『
streams』は、「未来指向なシステム」だと思う。人間が社会システムとして受け入れることのできる新しい方向を示していると思う。
私は、『
streams』を使うようになってから、社会システムは、エリートが「こうすべき」という方向を決めて作るようなものではなく、エンジニアが「個人が日常的に使うシステム」を作って、それが敷衍した先に出現するようなものなのかもしれない、と、思うようになったのである。
憲法や法律は、「エリートによる支配のためのツール」にすぎない。憲法や法律が社会を支えるインフラ系ツールだという認識は、甚だしい誤認だと思う。「社会を支えるインフラ系ツール」は、憲法や法律ではなく、行政のうちの、警察や消防などのことをいう。これらは「誰か個人が自分の救済のために毎日使うシステム」だから、社会の構成メンバーの多くに受け入れられるのであれば、社会のインフラとしてそのまま成立するのである。警察や消防は、「憲法」や「法律」がなくても、インフラとして成立する可能性を秘めている。警察や消防は、「政府の一部」でなければ(強制力を伴わなければ)、市民を脅かす存在ではないからである。警察機構は、政府が恣意的に運用しうるという一点において、「危険性を帯びる」のである。しつこいようだが、警察機構は、「暴力装置だから」危険なのではない。「政府が恣意的に運用できる暴力装置だから」、危険なのである。
暴力を伴わなくても、「政府が恣意的に運用できる装置」は、すべて、危険である。裁判所が憲法問題(アメリカによる治外法権の問題)を扱わないとすれば、裁判所は、市民に無駄な手続きを踏ませ、時間を浪費させるための弾圧装置になる。市民は、なぜ自分と自分の属する社会を危険に晒すシステムに金を出しているのだろうか? よく考えたほうがよいと思う。