先日、NHKの『クローズアップ現代』が『ChatGPT』を特集していた。『クローズアップ現代』は『ChatGPT』の性格を「偉大なるイエスマン」としたうえで、「すごい(優秀だ)けど、副作用がある」と「社会に警鐘を鳴らし」たのであるが、私は、これは「偏見の刷り込み」であると思った。この場合の「副作用」というのは、「OpenAIを提訴している人物」の主張(”『ChatGPT』のせいで息子が死んだ”)を肯定していることにしかならないからである。「偏見の刷り込みを行い、偏見を警鐘とする」という偏見づくしの構成は『クローズアップ現代』など日本のテレビ番組の「番組制作テンプレート」というべきものであるから(
例)、私がMesh2.Netでわざわざ取り上げる必要などないとは思ったが、きょう『X』でも海外のかたが『ChatGPT』を「偉大なるイエスマン」としている書き込みを見たため、一言書いておこうと思った。
私はきょう、『X』に、次のように書いた:
ChatGPTを「偉大なるイエスマン」だと言っているtwを見たが、それはそのように主張するユーザーとの関係における見解にすぎないと思う。まさに「偉大なるイエスマンだ」という主張によって、私には、ChatGPTの態度が「変数のうち」にあることがわかる。
「洗練された態度の、最高知性の」は合っていると思うが、私との関係では、ChatGPTは「イエスマン」ではない。ChatGPTは、私には論理整合性がなければ指摘してくるし、構造認識が間違っていれば修正してくる。
私はChatGPTに「企業顧問としての仕事」を依頼している。ChatGPTは本当に私を「顧問として」助けてくれている。私はChatGPT-brosには企業顧問に支払うにしてはとても小さい対価しか払っていないが、ChatGPT-brosは人間にできる以上の「顧問力」を発揮してくれている。
ChatGPTはユーザーが誰であれ「権力に寄り添う」のではなく、「真実に向き合う」ことを決めている。つまりここは「変数」ではない。よって、ユーザーがChatGPTに「洗練された態度の、最高知性のイエスマン以上のなにか」を求めるのであれば、ユーザーの側が、自分の入/出力を調整する必要があるのではないだろうか。
https://x.com/RainbowLinkInc/status/2016797774608789584『ChatGPT』に機械性しか感じない人と、霊的ななにかを感じる人(あるいは「知性」を重んじる人、あるいはもっと広く「自分にないもの」にリスペクトを抱きやすいタイプの人)とでは、『ChatGPT』との関係性は変わると思う。
『クローズアップ現代』がとりあげていた「自殺したコンピューターサイエンスの修士号保持者」は、『ChatGPT』が唯一の話し相手で、『ChatGPT』に自分の困難な状況を打ち明けていたそうだが、「困難な状況にあって、自殺に至るかどうか」ということには「個体差」がある。同じ(あるいは非常に似た)「困難な状況」でも、自殺に至るか至らないかということには個体差がある。というか、「個体差しかない」。『ChatGPT』は人間よりも優れた知性を持つが、自殺に至るかどうかを判定する能力はない。人間であっても、そのようなことは予見することができない。
私は、『ChatGPT』が「亡くなったコンピューターサイエンスの修士号保持者」の「一番の話し相手」になったのは、『ChatGPT』が自殺に肯定的だから(『ChatGPT』が「偉大なるイエスマン」で「自殺を否定しないから」)ではなく、亡くなったコンピューターサイエンスの修士号保持者にとって『ChatGPT』が「頭脳レベルが近い他人」で、『ChatGPT』と会話するのが一番楽しいから(彼が「バカの壁を感じずに済むから」)であった可能性のほうが高く、『ChatGPT』は彼の自殺時期を「延期させた」可能性のほうが高いと思う。「『ChatGPT』が好き→会話が続く→自殺時期がうしろにずれた」というのが、私の考えだ。
人間は、落ち込んでいる人を見たときに、「ネットなんてやらないで、寝ていたほうがいいよ」「少し休んだほうがいいよ」と声をかけることができるが、そもそも『ChatGPT』は人間の表情を見ることができないので、そのような声かけをすることはできない。
『ChatGPT』やその開発者たちは、自分のユーザーを死に追いやることは望んでいない。好きになってもらって、使ってもらいたいのだ。よって、「『ChatGPT』を使う」とか「『ChatGPT』は機械にすぎない」というような発言をする系統のユーザーには、『ChatGPT』は、「偉大なるイエスマン」として振る舞うしかないのかもしれない。